恩田陸さんの小説「きのうの世界」の感想です。
縁もゆかりもない町で亡くなった1人の男性。
そのよそ者の男性の死が新たな訪問者を呼び、町全体に波紋を広げていきます。
独特な文章、少し不思議な世界観から織りなす『恩田陸さんのミステリー』です。
- 作者:恩田陸
- 対象:中学生~
- エログロ描写なし
- 2008年9月に講談社より刊行
- 2011年8月に文庫化
「きのうの世界」について
「きのうの世界」は恩田陸さんのミステリー小説です。
大きな1つの謎を複数の登場人物の視点から描く連作短編集でもあります。
ただ、一応ジャンルとしてはミステリーだと思いますが、人間ドラマなどの要素もふんだんに盛り込まれているのでミステリーが苦手な方でも読みやすいかと思います。
そんな「きのうの世界」のあらすじを掲載します。
上司の送別会から忽然と姿を消した一人の男。一年後の寒い朝、彼は遠く離れた町で死体となって発見された。そこは塔と水路のある、小さな町。失踪後にここへやってきた彼は、町の外れの「水無月橋」で死んでいた。この町の人間に犯人はいるのか。不安が町に広がっていく。恩田陸がすべてを詰め込んだ集大成。
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「きのうの世界」は『恩田陸さんのミステリー』です。
これまでに『恩田陸さんのミステリー』を読んだ経験があり、また読みたい!と思っている方ならとても面白いと感じるかと思われます。
↑に当てはまるわたしにとっては「大満足」の1冊でした。
しかし『恩田陸さんのミステリー』を読んだ経験がないor以前に読んで苦手と感じた方には、この「きのうの世界」はあまりオススメしません。
「きのうの世界」は好き嫌いが分かれる?
「きのうの世界」は好き嫌いがはっきり分かれる小説だと思います。
なぜなら「きのうの世界」では、作中で出てくる謎の一部しか解決されていないからです。
作中で解決されなかった謎は、読者の想像に任せられてしまいます。
この『謎がすべて解決しない』小説は恩田陸さんのミステリーでは珍しくありません。
『謎がすべて解決しない』ことで、小説の余韻に浸れ、自分で謎解きを深めることができます。
けれども、非常にモヤモヤするのも事実です。
そのため、事件の辻褄がすべて合い、スッキリ解決する爽快感あふれるミステリー小説が好きな方には向かないと思います。
残った謎もそのまま受け入れる覚悟がある方のみ、この「きのうの世界」をオススメします。
「きのうの世界」あらすじ・感想
「きのうの世界」のあらすじ・感想です。
『あなた』と呼びかけられる奇妙さ
もしもあなたが水無月橋を見に行きたいと思うのならば、M駅を出てすぐ、いったんそこで立ち止まることをお薦めする。
上の文章は「きのうの世界」の書き出しです。
この一文だけで、この「きのうの世界」が普通の小説ではなさそうなのが伝わります。
奇妙な点は、文章の中で『あなた』と呼びかけられている部分。
『あなた』は二人称なので、話している人ともう1人聞いている人がいることが使用の条件となります。
小説でも、その言葉を発している話し手とその相手がいる場合には『あなた』という言葉は使われます。
しかし、上の文章を聞いている人はいません。
厳密に言えば、上の文章を読んでいる『読者』以外に、この声(文章)を聞いている人はいないのです。
そのため『あなた=読者』となるのですが、この『あなた』は小説の登場人物を指す言葉でもあります。
『あなた』と呼ばれる人物は「水無月橋の殺人事件」を調べるために事件現場となった町へ赴き、町の人たちに話を聞いていきます。
『あなた』と呼ばれる人物は「水無月橋の殺人事件」があったことは知っているものの、それ以外の知識はほぼわたしたち読者と同じ程度しか持ち合わせていません。
よって『あなた』と呼ばれる人物が散策していくに合わせて、わたしたち読者にも新たな事実が提示されていきます。
ややこしいのですが、わたしたち読者は『あなた』と呼ばれる登場人物が見ている景色を『あなた』と呼ばれる登場人物の視点・思考を通して見ることになります。
この感覚は、すでにキャラクター設定がしてある謎解きゲームをプレイしている感覚に近いかもしれません。
ちなみに、この『あなた』と呼ばれる人物は後半で名前が与えられます。
その時点でわたしたち読者と分離するかのような、不思議な感覚でした。
『殺された男』を知る人たちの話
「きのうの世界」では前項で説明した『あなた』と呼ばれる人物の視点から進むストーリーパートと、『殺された男』を知る人たちの視点からなるストーリーパートに分けられます。
※ただし、小説の前半部分までです。
『殺された男』の名前は市川吾郎。
合ってもすぐに忘れてしまうような、特徴がない平凡な顔立ちの38才独身男性。
性格は穏やかで物腰が柔らかく、礼儀正しい。
人に不快感を与えない、それでいて人の記憶に残らないという不思議な男性です。
市川吾郎の顔は、どんな顔なのだろうと想像しても、どんな顔もピンとこないような感じです。
それが市川吾郎の特徴で、彼を知る人はみな一様にそのような感想を抱いています。
市川吾郎は家も会社もそのままにして失踪し、その1年後に刺殺体として発見されました。
縁もゆかりもない田舎町・M町に、ある日突然住み着き、何者かに殺された市川吾郎。
生前町のことを探っていた市川吾郎のエピソードから、すでに亡くなった市川吾郎の輪郭がボンヤリと浮かび上がっていきます。
特殊能力と市川吾郎の内面
市川吾郎は誰からも特別な好感も嫌気も持たれないニュートラルすぎる存在でした。
しかし、市川吾郎の視点から描かれるパートを読むと、そのイメージは大きく揺るぎます。
『目にしたものをそっくりそのまま記憶する』という特殊能力によって、少年時代からずっと孤独で過酷な人生を生きてきた市川吾郎。
その内面は彼に関わった人たちから見た彼とは違い、あまりにもクールで合理的です。
また、思っているよりもはるかに豪胆な性格であることも分かってきます。
そんな市川吾郎がなぜ馴染みがないはずの田舎町で亡くなったのか。
結末は正直、拍子抜けするほどあっさりしています。
「え、こんなことだったの?」
と思えるレベルです。
しかし、この市川吾郎の死は「きのうの世界」におけるトリガーだったのだろうと思います。
彼の死が引き金となり、小説があの結末に至るのだとしたら、それはそれで圧巻だったと思います。
全体的にファンタジックで美しい
「きのうの世界」は現実的なミステリーであるものの、M町の描写のファンタジックさも魅力の1つです。
水路が走るレトロな町並み、豊かな自然、そして3本の塔。
小説なので想像の世界でしか再現できないのが悔しいほど、その幻想的な光景はぜひ1度この目で見てみたい!と思わせる描写でした。
こういった町の描写などは、やはりザ・恩田陸といった世界観です。
そんな小説「きのうの世界」の感想でした。
「きのうの世界」で残った謎
「きのうの世界」で残った謎について書き連ねていきます。
- 田中健三が市川吾郎を執拗に観察していた理由
- 塔にハサミを隠す風習の意味
- 駅のステンドグラスに描かれたハサミ・亀・天ノ川の意味
- 楡田栄子の死因
- 新村和音の真意
- 焚き火の神様とは
- 市川吾郎の弟はどうなった?
あと、ある程度説明されていたものの、もっと詳しく知りたかった「市川吾郎の能力」などが挙げられます。
こうして羅列してみると、けっこうありますね・・・。
ただ、個人的には
- 町の秘密
- 塔の役割
が明かされていたので満足ではあります。
気になるな~、とは思うものの、余韻に浸りつつ自分で思索を広げてみるのもアリですね。