恩田陸さんの小説「月の裏側」の感想です。
掘割が巡る水郷都市・箭納倉(やなくら)を舞台に繰り広げられるSFホラーとなります。
静かに、しかし確実に常識が覆されていく怖さ。
美しい文体で紡がれていく、圧倒的に怖いホラー小説です。
- 作者:恩田陸
- 対象:中学生~
- エログロ描写なし
- 2000年3月に幻冬舎より刊行
- 2002年8月に文庫化
「月の裏側」について
「月の裏側」は恩田陸さんの小説です。
ジャンルは一言で言い表せないのですが、ノスタルジックなSFホラーといった感じでした。
前情報なく、文庫の裏表紙に書かれている粗筋すら読まずに読み始めた「月の裏側」ですが、途中からとんでもない方向へ進み、終わるまでずっとビクビクしていました。
思いもよらずホラー展開になっていき、とても怖かったです。
お化けや妖怪、殺人鬼も出てこないホラーですが、ジワジワと怖さに侵食されるタイプであり、わたしにとって一番怖いホラーでした。
小説なのに、作中のある場面は夢に出てきそうなほど、脳裏に焼き付いています・・・。
まずは、そんな「月の裏側」のあらすじを掲載します。
九州の水郷都市・箭納倉。ここで三件の失踪事件が相次いだ。消えたのはいずれも掘割に面した日本家屋に住む老女だったが、不思議なことに、じきにひょっこり戻ってきたのだ、記憶を喪失したまま。まさか宇宙人による誘拐か、新興宗教による洗脳か、それとも? 事件に興味を持った元大学教授・協一郎らは〈人間もどき〉の存在に気づく……。
月の裏側―Amazon.co.jp
「月の裏側」の舞台は、九州にある水郷都市・箭納倉(やなくら)。
この箭納倉は、福岡県に実在する柳川市がモデルとのこと。
柳川市は江戸時代に整備された掘割(ほりわり)が街中を巡っているのが特徴。
どんこ船での川下りが有名で、詩人・北原白秋の生家があり、そのどちらも小説内で言及されています。
特に掘割は作中でとても重要な役割を果たします。
時代は1998年6月です。
今、このブログを書いているのは2026年なので、28年前のお話ですね。
「月の裏側」は、そんな柳川市がモデルの箭納倉へ、塚崎多聞(つかさきたもん)が訪れるところから始まります。
タイトル「月の裏側」の意味とは?
この小説のタイトルは「月の裏側」。
しかし、作中で「月の裏側」に関する話は出てきませんでした。
ではなぜ「月の裏側」というタイトルなのか?
調べてみると「月の裏側」とは、地球からは絶対に見ることができない月の反対側を指す言葉でした。
月は地球に対して、常に同じ面を向けています。
これは月が地球の周りを公転する際に、月の自転周期と公転周期が一致する(同期自転)ため、常に同じ側の面を地球へ向けているから。
この現象は『潮汐ロック(ちょうせきろっく)・潮汐固定』と呼ばれ、潮汐力により天体同士が引き合い、もっとも安定した状態に落ち着くため起こります。
安定した状態なので、別に珍しい状態ではなく、多くの天体の間で発生しているとのこと。
半分はずっと地球側を向いているのに、もう半分は地球から絶対に見ることができない。
この状態こそが、まさに小説「月の裏側」を表しています。
意味を調べると腑に落ちるタイトルでした。
【ネタバレなし】「月の裏側」感想・あらすじ
「月の裏側」のネタバレなし感想・あらすじです。
コンパクトな構成で紡がれる、壮大なSFホラー
「月の裏側」は、多聞が大学時代の恩師・協一郎と再会するところから始まります。
多聞は協一郎から、不思議な事件が起きている、と聞かされ箭納倉を訪れます。
『不思議な事件が起きているから、箭納倉へ来ないか?』という呼び出しだけで東京からはるばる福岡県まで訪れる多聞のフットワークの軽さはある意味、異質です。
しかし、多聞はとにかく飄々として生きているので、ずっと読んでいると『まあ、この人ならわざわざ来るな』と思わされます。
さらに、箭納倉には協一郎の娘・藍子も訪れ、多聞と藍子は久々の再会を果たすことに。
箭納倉で起きている事件を追っている新聞記者の高安も加わり、4人で箭納倉で発生した奇妙な失踪事件について調べていくことになります。
また、箭納倉の歴史に詳しい郷土史家・小林武雄の存在も大きく、登場がわずかながら圧倒的な存在感でした。
そのほか、印象的だったのは協一郎の飼い猫・白雨(はくう)。
猫ながら、物語を進める重要なファクターとして活躍していました。
「月の裏側」はメインの4人、プラス1人、プラス1匹というミニマルな登場人物で構成されるので、人物名を覚えるのが苦手な方でも読みやすい小説だと思います。
しかしながら、物語が進んだ先にあったのは、驚くほど壮大なSFホラーでした。
五感で楽しめる小説
「月の裏側」は読んでいるだけで情景や音、匂い、空気の質感などが伝わってくる、五感で楽しめる小説でした。
掘割が走る箭納倉のノスタルジックな風景。
高安によるインタビュー音声。
小説後半の静寂に包まれた街。
梅雨の雨上がりの匂い立つような描写。
雨上がりの蒸し暑さや、一転して晴れた夜の涼しさ。
そのすべてがリアルな肌感で描かれ、そのためより一層、ストーリー展開に恐怖を覚えました。
どこか遠い世界ではない、自分も知っている、近い世界、身近な世界で起きた異常。
少しずつ、しかし確実に変化していく日常。
常識が崩れていく恐怖が、現実感に溶け込んでいるので、静かにホラーが染み渡っていく感覚でした。
また、そんなリアリティの中で、明らかに異質な状況が克明に書かれているのも怖かったです。
図書館での異常や、朝のコンビニエンスストア、農協倉庫で見たものなどは、文字だけで書かれているからこそ想像が広がりすぎる恐ろしさでした。
さらに、Chapter12の高安によるボイスレコーダーの緊迫感も好きでした。
恩田陸さんの「Q&A」を彷彿とさせる、話し言葉のみで綴られる切迫した状況は、あまりにもこちらの想像を掻き立て、まるで追体験させられているようでした。
自分を取り巻く世界が、少しずつ変わっていく。
いや、自分が信じていた世界が、最初から、根本的に思っていたものと違うものだったとしたら。
自分たちだけが世界の枠から外れた、異質な存在であることに気付いてしまったら。
「月の裏側」は視覚的な怖さだけでなく、そんな精神的な怖さも突きつけてくるホラー作品でした。
けれども「月の裏側」の本質はSFホラー展開ではなく、恩田陸さん特有の美しい文体だとやはり感じました。
綴られる言葉1つ1つがキレイで、魅力的で、読んでいて気持ちが良かったです。
ここまで「月の裏側」の感想でした。
